2017年2月17日金曜日

調和していない「ハーモニー」

 アニメ映画「ハーモニー」を観ました。今更。先週観てきた「虐殺器官」が面白かったからです。ミーハーだという自覚はあります。「屍者の帝国」はちゃんと公開中に観たんですよ!
 
 でも結論から言ってしまうと、シリーズの他2作品に比べると「ハーモニー」はあまり良いと思いませんでした……。序列で言うと「虐殺器官」>「死者の帝国」>「ハーモニー」。実は僕にとっての原作の評価も同じ順なんですよね。ということで今日はどこが好みでなかったかを書こうと思います。単に初読の印象を超えられないっていう話かよ!と突っ込まれたらちょっと詰まってしまうんですが。ご愛敬。

※以下ネタバレ含みます。

 全般的に抱いた感想は「どこを目指しているか分からない」ということです。原作が目指していたのは、安全と平和のために他者との同一化を望む一方、個人としての欲望や揺らぎを捨てきれない人間の苦悩の表現だったと僕は思います。父と友人を殺された個人的な復讐のためにかつての同士ミァハとの決別を選ぶというトァンのキャラクターとストーリーラインは、自身の意思で選択をする人間の姿を書ききっていました。「何もかもが自明に選び取られることによって意識が消失する」という作中のアイデアは少々実感を持ちにくいものでした。なにせ我々は意識をもって作品を摂取しているわけですから。これによりエンタメとしては少々難のあるものになってしまっていましたが、それを鑑みてもこのストーリーラインなお説得力のある読後感を与えてくれていたと思います。

 しかし映画版において、トァンがミァハに銃を向ける際に叫んだ言葉は「私の好きだったミァハのままでいて」「愛してる」です。そして殺してしまう。もちろん人を愛するというのも立派な個人の想いです。でもそれで殺すでしょうか。意識がなくなるまで一緒にいれば良いでしょう。

 原作になかった同性愛的な描写が増やされたのも得心が行きません。「このおっぱいも、このあそこも…(略)」というミァハの台詞は原作にもあって、いかにも男から見た百合的会話だなぁと感じて僕は好きではなかったのですが、映像で実際に行為に及んでいる姿を見せられると、より萎えてしまいました。そんなウェットなもののために個人であろうとしていたのか?ミァハやトァン、ミァハの語った子供たちの生きづらさはそんなもので解決できるものだったのか?

 

 あまり説得力の無い文章を書いてしまいました。原作が手元にないのがイタイです。時間切れなのでこの辺で。精進します。

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