2017年1月8日日曜日

薄々気づかれているだろう

 文章を書く上では、タイトルを考えるのが一番苦手です。

タイトルは作品の一部分を抽出したものです。ひとかたまりの文章を名づけ、一つの作品にする。商業作品なら作品名という意味だけでなく、商品名という別の意味が発生する。その目的からして、不可避的に長い原文を別の短い言葉にせざるを得ない。

長いものを短くしたら、必ず失われる部分があります。それが僕には辛いです。短くまとめられない、でもなんとかして伝えたい思いや意見があるからこそ苦労して物語を書き上げた。それなのに、またそれを猛烈に短縮しないといけないのですから。そのほんのわずかな一言で、いったい何を伝えられるのか。いつもむなしく思います。
ただ一方で、世の中そういうことばかりのような気もします。つまり、膨大で抑えられない何かの、しずくみたいな一部を取り出して、それが終わったことにする。そんなはずないのに。

たとえば葬式がそうだと思います。ある人がいなくなり、その人が占めていた空間がぽっかりと空く。その喪失感は、身近な人の記憶からは一生消せない。でもだからといって常にその穴を意識して泣き暮らしていたら、他の人まで生きていけなくなる。そうさせないよう、「区切り」をつけさせるために社会が生み出したシステムが葬式ではないでしょうか。
死人のことを考えるのはここまで。これだけ長い時間大変な思いをして、手間をかけて焼いたのだからこの人も恨んだりしないでしょう。だからあなたたちもこのことは迅速に忘れて自分の生活に集中しましょう……。そうすれば社会も回っていくから。そして関わった人も、忘れてしまったことに罪悪感を抱かなくても済む。

そんな意図が透けて見える気がするので、僕は葬式が好きではありません。自分が死んだら即火葬して、海にまくか土に埋めてほしいと思います。その場に立ち会うのも、親兄弟くらいだけで十分です。
もちろん以上に書いたのは僕の個人的な嗜好の問題であり、他の方が葬式の場で死者を悼むことをなんら否定するものではありません。その場に誠実な心持ちで望むなら、それだけで十分に素晴らしいことだと思います。


ただ、そういった「区切り」のようなものでは処理しきれない、抑えきれない思いを書きたいと思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿